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2012.2.4(土)晴れ 境川の水草
さすがに立春で手袋をしようかどうか迷うぐらいの陽気になった。ただし峠は敬遠して半原2号で境川。続けている高トルク低回転型の練習だ。今日は50×16Tを使った。70rpmで28km/hぐらいになる。今日の南風はそれくらいの強度でちょうどよかった。心拍数は160bpm。
ただその心拍数のマネージメントは難しい。160bpmぐらいに一定させようと意識しているのに、すぐにがんばりすぎたり力を抜きすぎたり。自分自身がどれだけ力を出しているのかを知ることは簡単ではないようだ。私はタイムトライアルの専門家である。心拍数のコントロールは完璧にできないとだめだろう。
ところで、境川の本流は私にとってそれほど面白いものではない。その水の半分は生活排水を処理したものである。残りの半分は農業用水の余り物だ。護岸は傾斜のきついコンクリートの壁だ。流れの中では大きなコイが腹をこすりつけるように泳いでいる。カワセミやらサギやらが物欲しそうに水をのぞき込んでいるから、小魚もいるのだろうけど道路からは見えない。コイさえいなければ、つんつん泳ぐ小魚の群れも見られるような気がする。ちょっと残念だ。水草など影も形もないのはいうまでもない。境川では水中化したタデ科の雑草なんて探しても無駄だ。
ただ、境川にも泉が湧く特異点がある。遊水地公園として工事中の鷺舞橋の下にはかなりの勢いで湧く泉がある。泉とはいえコンクリートの穴から境川の地下水が噴出するだけのものだが、その存在はよく知られており、遊水地情報センターで泉のヒキガエルの産卵情報が掲示される。
私はかつてあまりの殺風景さにがっくしきたことがあり、その湧水は気に止めていなかった。ところが、今日鷺舞橋から見下ろすと、なにやら水草らしいものが目に入ったのだ。落合川で見たカワヂシャ(オオカワヂシャ)によく似ている。さっそく降りて近くで見てきた。泉の下流のコンクリに泥がたまっている部分に根を下ろしているようだ。クレソンらしいものもまじっている。オオカワヂシャのように見える。夏になって花が咲けば特定できるだろう。
境川だって泉があれば水草も生える。近くの泥地にはギシギシのロゼットもあった。現在は神奈川県が遊水地公園を増設中だ。県は泉をどうしたいのだろう。泉の周囲には遊歩道もある。川底のコンクリートをひっぺがして沼にすればさぞかし愉快な場所になろう。そこまでは期待できないが、今のままでも来年あたり水中タデが生えるかもしれない。
2012.2.5(日)くもり 一度に一人
お日様が雲に隠れ少し寒い日になった。風は北から弱い。引き続き半原2号で境川。風がそれほど強くないものだから高トルク練習には適さない。ギアはちょっと軽めの50×17Tに固定してケイデンスは80rpmにした。いつも往復する部分は片道7キロあまりある。そこを15分ぐらいかけて4往復するのがメニューだ。
ペダリングではペダル位置の違いで力の入れ方が変わるという当然のことを自覚できるようになった。押すとき、踏むとき、ひくとき・・・青木裕子(アナじゃないほう)やイケクミ(仮)や田代さやかがそれぞれのパートで活躍してくれる。クランクは1秒弱で1周する。その間に彼女らがバトンタッチしてがんばってくれればけっこうな出力になると思う。ところが、彼女らは仲が悪く協調してくれない。1周のうち意識できるのはどれか一人だけなのだ。そこんとこをなんとかできないものかとがんばった。むりだった。お付き合いできるのは一度に一人。たぶん軽いギアで高速回転しているときは無意識に全員を動員していることになるのだろう。
午前中は北風だったが、午後には南寄りになった。境川では風は北か南かしかない。東風なら南風と北風がばらばらに吹く。どうやら低気圧が近づいているようで、明日はやっぱり雨なのだろう。下半身ばかり意識していたら、右腕にいやな感じで力が入っていることに気づいた。意識して抜かねばならない。サドルの座り方もいろいろ工夫した。
2012.2.6(月)雨 東大の入試問題
何年か前に出題された東京大学の入試問題を誤解していたことがある。その誤解は「円周率πが3よりも大であることを証明せよ」というものだった。本当は「πは3.05よりも大」という問題だったようだ。
その問題が小田急線の車内で話題になっていた。会話の主は学生らしい若者たちである。なんでも当時、東京大学は小学生に円周率を約3であるとゆとりっぽく教えることに抗議して、あえてゆるい出題をしたというのだ。若者たちの話によると、2ちゃんねるでも騒動になったのだという。そうしたことを満員電車の耳元でツイートされ、入試問題が私に届いた経緯がようやく明らかになった。どうも教育事情とか2ちゃんねるとかに精通している友人が、私に不確かな情報をもたらしたようである。
あのとき私は5秒で解けた。3なら中学入試レベルである。東大も楽になったもんだと皆で笑い物にしていたのだが、3.05となると事情がちがう。難易度が上がるわけではないが、暗算ではまるっきり歯がたたなかった。1引く3の2分の1乗の2乗割る4というような計算ができないからである。けっきょくその問題は解かないままに放っておいたのだが、ときおり思い出してもいたので、この機会に解いておいた。じつは計算を何度か失敗してやむなく電卓を使った。
2012.2.8(水)くもりときどき雨 炎
いうまでもなく子どもの頃から火を見るのが好きだった。火を見るのが仕事だったともいえる。はじめの頃は井戸からバケツで水を汲んで、上水道が整備されてからは蛇口をひねって水をため、廃材を炊きつけて風呂をわかすのが私の役割だったからである。子どもでも火の番はできる。火事を恐れるなら火は絶えず監視しておくにしくはない。
火を特徴づけるのは炎である。炎は明るく熱い。ゆらゆらはかなくても存在感は十分で効果は抜群だ。炎の触れたものは木でも紙でも炭でも速やかに燃える。
炎には様々な形相があった。丸いもの尖ったもの。赤いもの青いもの。風呂をわかしていてときおり見られる緑の炎はとりわけ印象深かった。
ほのおの正体はずっと不明だった。ちょっとまじめに考えるぐらいではつかみどころがない。ライトを当てても炎には影ができない。鏡に写らないドラキュラ伯爵よろしく光の中で存在を消してしまうのだ。正体を明らかにする必要にもさして迫られず、かといって忘れさられるような謎でもなかった。
それが今朝、自転車に乗りながら、みの味のシールをめくる加藤シルビアの指を思い出しているとき、ふと炎とは高温になって発光している気体なんだと確信した。気体の分子もしくは微粒子が炎の実体だ。つかみどころない炎には確かな物質がある。
およそ物質は高温になると発光する。物質が温度に応じて発する光の色は一定らしい。黒体放射は高校の地学で知識として習った。黄色い太陽は6500℃ぐらいで、青いシリウスはもっと熱い。鉄を熱すると赤く光る。さらに熱すると鉄は溶けてオレンジ色に光る。鉄は個体でも光る。液体でも光る。気体でも光ることが期待できる。熔けた鉄をさらに熱すると蒸発して青く光るのだろうか。プラズマの大槻先生が作った火の玉は青い炎みたいだった。
風呂で廃材が燃えるときには炭水化物が水と二酸化炭素になって発熱する。私が見ていた炎は高温の水蒸気と二酸化炭素、あるいは分解結合をしつつある炭水化物の微小な破片なんだろう。
2012.2.10(金)晴れ そわそわの春
去年の秋に東京の矢川に行った。イヌタデの中のイヌタデであるアカマンマが花ざかりの頃である。矢川の源流部は住宅地の中の沼として保全されていた。浅い沼の中に木道が作られ、歩きながら水の様子を観察することができる。そこには結構な数のアカマンマの花があった。ただし水中ではなく水の上の花だ。水中部にはほとんど葉が見とめられない。さらに水に浸かっている部分が多いほど勢いがないように見られた。
アカマンマが水中生活に弱いというのは定説だ。実験でも確かめられている。どれほど弱いかは気になるところだ。矢川の状況を見るかぎり水中に落ちたアカマンマの種は水中で芽吹くことが予想される。どれほど芽吹くのか、新芽はどこまで成長できるのか。
春になると私のアカマンマが一斉に芽吹く。発芽率100%とは思わないが、手のひら程度の面積に10〜20個、密集といえるぐらいには芽吹く。アカマンマは芽も葉も花もかわいくて、この数年は芽吹いたときから毎日観察と撮影を続けてきた。場所は日当たりが悪く湿った庭だ。いうまでもなく水中ではない。私のアカマンマを見るかぎりではそれが水草とは思えない。それでも水中で芽を出すならば才能はある。
小学校では種が芽を出すには水と空気の両方が必要だと習う。私も半世紀前に実験した記憶がある。学校の授業だから、その実験に主体性はなく意味を考えるでもなかった。たしか種は豆だったが結果は覚えていない。ともあれ学校の試験の正答は「発芽には水と空気の両方が必要」ということだから、水中で芽吹く種は特殊なはずだ。
思えば、田植えが完了した水田には草の芽が相当目に付く。それらがじゅうぶんに成長しないのは除草剤の力ばかりではないだろう。芽吹いたものの水面までの深さに力尽きるものも多いことだろう。果たして私の好きなアカマンマは水底の泥中から芽を吹くのだろうか。芽を出して、どれぐらいの深さまでなら生き残れるのだろうか。
私はアカマンマが水中で成長し水中花をつけた例を一つしかしらない。それは流れの速い湧水河川らしく、特殊な環境である。湧水はなぜかイヌタデに優しい。環境や個々の能力に差もあろうからなるべく多くの場所で多くの個体を見たいと思う。毎年、春になるとこういう野心を抱き、たいていは挫折してしまう。矢川にだって1回か2回行くのがせいぜいだろうが、行けば見どころはあるはずだ。庭のアカマンマからも毎年新しいことを教わっているぐらいだから。
2012.2.11(土)晴れ もしかしてこれ
境川は今日も穏やかで北よりの風がゆるく吹く。あいかわらず半原2号を持ち出して高トルク練習。風が弱いからギアはやや重の50×15Tにして北も南も休まないことにした。65から70rpmが目安だ。
やや重で重点的にやってみるのはやっぱり引き脚。上死点にかかる直前にペダルを蹴り上げる技に終始した。そのとき活躍する筋肉はイケクミ(仮)と青木裕子(アナじゃないほう)だ。どうしても田代さやかは休みになる。引っ張り出そうとしてもダメだ。とりわけ青木裕子との仲が悪い。双方とも巨乳が売りのグラビアガールだったからキャラかぶりなのだ。ちなみに、あまり知られてないけれど、彼女らは運動性能的にもいい体をしている(はずだ)。
わりといい感じで乗れて、気がついたら100kmになっていた。気づかずに5往復やったらしい。ふだんより早く出てきて日も長いから調子が狂った。軽い休憩をして立ちがあろうとすると太ももに痛み。いつもよりダメージがきている。それで帰りの20kmは軽く回していこうと19Tにかけた。たしかに軽いのだが回らない。80rpmがやっとだ。65rpmで4時間乗って回さないくせがついたのか。高回転もなかなか深い。それでも10分も続けておれば楽に90rpmは越えるようになった。ただし回転ムラは気になる。ともかく軽回し乗りでも上死点前の蹴り上げは意識した。
境川から出るには必ず急傾斜を登ることになる。どこでも10%程度のけっこうな坂がある。インナーに落とすのも面倒でアウターのまま23Tに入れて立ちこぎで越えることにした。試しに立ちこぎでも蹴り上げてみた。それが意外にも好感触で驚いた。「もしかしてこれがいわゆる引き脚も使うダンシングってやつ?」と目から鱗の気分だ。「これが続けられたら半原越は15分だな」とありもせぬ夢が見える。立ちこぎの引き脚は指導書にあったから、幾度か試してはみた。しかし、いつもぎくしゃくして疲れるばかりで無理だと感じていたのだ。重点的に蹴り上げ練習を積んだのが立ちこぎに生きてきたのか。15秒だけエラスやランスに並んだ気がした。
2012.2.12(日)晴れ 田代さやかを動員
田代さやかはかなり意識しないと登場しない。出てこなくたって自転車は進む。むしろ普通に巡航するなら、田代さやかをはじめ3美女を召還する必要なんてない。しかし半原越で好タイムをたたきだそうとすれば、どうしたって彼女らの力を借りなければならない。てなわけで、さやかと裕子は仲が悪いから・・・なんて世迷い事は言わず、二人に協調してもらうのを今日の課題とした。
昨日よりもちょっと強めの風が吹いており、北向きはかなりいい感じだ。50×16Tにして仮想半原越でやってみた。かなり力を入れても、ケイデンスが60rpm程度ならば、さやかと裕子は協調した。ただし、時間は長くて10秒程度、せいぜい10回連続といったところだ。できない相談ではないことは分かるし、達人はできているはずだ。2〜3分もできるようになれば強力な武器になるだろう。
これまで田代さやかも青木裕子(アナじゃないほう)も引き脚の筋肉としてきたが、明らかにちがう部位を使って同じく引き脚だと用語として具合が悪い。田代さやかは下死点通過後だから「引き脚」とし青木裕子を使う方は上死点直前だから「上げ脚」として区別することにした。
結晶が良質であればどのように私は言うのですか?
昼飯はいつものように高鎌橋のセブンイレブンの裏。白い壁に太陽が反射していい具合に暖かい。メインストリートを離れた道ばたにごろごろ放置されている犬の糞を見ながらの昼食ってのはまあ残念だが、ここは神奈川県だ。ついでに水路のシジミ殻を撮ってきた。写っている最大のもので1cm程度である。この調子で水路の底にいっぱい転がっている。泥は湿っており、以前と若干様相が違う。どうやら先週降った雨水が流れたようだ。雨の排水路としては冬も機能しているとみえる。
高気圧が北西の彼方にあって日本に張り出しているのだから、境川では気圧傾度風は北である。ところが、南端の白旗あたりになると午後は南風が吹いて来た。自転車で往復していると風向きが逆転する場所が変わる。気温があがって海風が入って北風とぶつかっているのだろうか。その特異点は海から5kmほどの所である。
走りはじめて4時間。体のエネルギーがなくなった。すっからかんだ。手はしびれ脚にはぜんぜん力がはいらない。走行距離にして90km。走り慣れた境川でエネルギー切れを起こすとは思わなかった。ペースはいつもと変わりないのだが、田代さやかと青木裕子の二人を動員する走り方は予想以上に消耗してしまうようだ。
2012.2.13(月)晴れのちくもり 量子化するマライアキャリー
マライアキャリーがホイットニーヒューストンを称して「世界最高の歌声を有する一人」とコメントしたという。それは、ホイットニーが単独で1番ではなく、マライアも1番だという主張だと思われる。ただし、誤解してはいけないのは、マライアは単に自分が1番だと言いたかっただけではないということだ。なにしろ、マライアの言語世界には、自分の歌声が1番という表現自体がない(あったとしても私の知ったことではない)から、言いたくても言えないのである。
日本語では習慣的に、量と質の双方で大小関係をつける。それは誤っている。科学的判断として、質には順位がつけられない。現実を感覚で説明する質の世界では1番を一つに決めることはできないのだ。ちゃんと順位がつくのは数量の分野だ。現実を数字で説明する数量の世界では、1番は必ず一つに決まる。2次方程式の極大値は常に一つだ。
日本語では質のほうにも順番をつけることができるから、アナじゃないほうの青木裕子は世界一美しいとか、永井真理子の歌声は日本一とか、自然に表現することができる。だから私は「世界最高の歌声を有する一人」というマライア発言に気味の悪さを感じ、世界一はホイットニーの他にもいるという悪意を含んで受け取る。日本人である私の弱点だと言えよう。
ところが、この1世紀ばかり、物理学の世界は量子力学が席巻してきた。エネルギーでも空間でもなんでもかんでも量子化して数学で処理すりゃ、宇宙の秘奥義を記述できるかな? と考えたんじゃないかなあと思う。そしてこの半世紀ばかりは電子計算機がどんどんパワーアップして簡単に使えるようになり、感覚までも量子化するのが流行りである。いわゆるデジタルってやつで、歌声だって数量の世界の仲間入りさせ計算することができる。
じゃあ、感覚の量子化は母国語として自然に大小つけてきた日本人の方が得意なのか、それとも習ってはじめてできるようになるアメリカ人のほうが得意なのか。その辺も量子化すれば甲乙つけられるかもしれない。
2012.2.15(水)くもり 名称決まらず
石井香織というグラビアガールが股を見せることを売りにしているらしく、それではと探ってみたが、残念ながらぴんとこなかった。股開きが持ち技といっても太ももの内側が美しいとは限らない。
というわけで、イケクミに換わる名称は見つかっていない。そもそも池田久美子を思いついたのが失敗だった。彼女に伍する太ももなんてめったに見つかるはずがない。そこに思いを至らせるべきだった。
そもそものそもそもとして、筋肉に名前が必要か?という猜疑もあろうが、それは経験から編み出した技なのだ。ひょんなことから太ももの裏側の付け根に田代さやかと命名し、半原越の区間3あたりを走りながら「いくぞさやか」「目覚めよさやか」「いいよさやか。最高最高」「もう終わりかさやか」などと、心の中で叱咤激励し相談しながらりきむと効果的だった。経験的事実である。ペダリング時にどの筋肉を使っているのかを把握するのは必修科目だ。ハムストリングの一つである田代さやかは目に見えず意識しにくい部位である。意識化のためには良い名称が必要なのだ。
ペダルの位置によって意識される(固くなる・痺れる・痛くなる)筋肉は変わる。引き脚での代表が田代さやか、上げ脚が青木裕子(アナじゃないほう)、踏み脚がイケクミ(仮)である。
筋肉に力が入っているからといって速度に効いているとは限らない。全く無駄な出力もあることは考えただけでわかる。踏み込む右脚を左脚で持ち上げることもあるだろう。単にタイヤをへこましたり、フレームを歪ませる力も出しているだろう。
私の3美女が無駄にりきんでいるだけという恐れもじつはある。そこんとこは自己流の悲しさだ。たとえば、脚を上げる筋肉は腰から腹部にあるはずで、上げ脚でもっとも効くのが青木裕子のはずがないと思う。目に見えて動く部分に無駄に力が入るというのは初級者や無能者にありがちな了見違いだ。いっぱんに、ペダルに接しかつ最も動きが大きい足に意識が集中しがちだ。だからといって足首付近であがくのは最悪の了見違いなのだ。
もう一歩考えを進めるならば、上げ脚で青木裕子が無駄働きしているならば、そうした無駄をなくすためにも意識化が必要だ。上げ脚で本当に効いているのは秘められた部位の可能性が高い。尻だの腹だのの強力な筋肉ほど疲れなくて意識されないことも考えられる。上げ脚時に青木裕子が受け持つ出力は10%程度に過ぎないのに、真っ先にオールアウトして主要部位の足を引っ張ることがあるのかもしれない。青木裕子にオーバーワークさせない上げ脚を練習する場合は、「おっと、裕子は休んでてね」という声掛けが有効なのだ。いずれにしてもTTのゴールでは一緒に昇天していただくことになる。
というように名称問題は繊細である。イケクミはかなりまずい。自分の太ももに呼びかけるのに池田久美子の名を使うのは僭越で気後れする。恐れ多いのだ。想像するだけで自己嫌悪に陥り、やれていない。近々、踏み脚の練習も開始しなければならない。性欲をつかの間紛らわす用途で出まっている連中の中からとびっきりの美女をみつけ、目的外使用するとぴったりフィットのはずなんだ。
2012.2.18(土)晴れ オーバーワーク
今日は強めの風が北から吹いていた。半原2号を持ち出して境川。太もも使いがなかなか面白くて、この一週間は自転車に乗らないときにもときおり太ももを動かしてみた。椅子に座って、脚は動かさないようにして、太ももの例の3つの部位を順番に緊張させ弛緩させる。これがなかなか難しかった。もしかしたらペダリングよりも高度な技かもしれない。
ともかく自転車に乗れるのはうれしいことだ。最初からちょっと張り切りすぎて、太ももの前奥に痛みが来た。青木裕子(アナじゃない方)の腹側のほう、腰骨につながる筋肉で上げ脚に使う部分だ。筋肉を痛めてもまずい。以後は上げ脚を自重しながら走ることに決めた。
北風は時速30kmぐらいある。追い風は完全に休むとして、向かい風の4本はギアを変えてやってみた。まず50×21Tで90rpmぐらい回してみる。軽々進み脚にがつんと来ることはない。呼吸にはかなり来るが脚の疲れはじょじょにたまってくる感じだ。つぎに15Tにかけてやってみる。これはかなり重い。60rpm程度しか回らない。この回転数だと、踏み脚、引き脚、上げ脚のすべてを意識できる。重いと踏み脚がうまくいかなかった。18Tにかけると田代さやかを登場させるのに苦労する。彼女は小さい回転数のときで本領を発揮するのかもしれない。ちなみに18Tが一番速い。
という調子でずいぶん気合いを入れて練習した。100kmちょっとをずっと太ももと相談しながら走った。帰宅してからも太ももが痛い。脚全体に張りがある。満足に歩くこともできない。楽しいのはけっこうだがオーバーワークになりそうだ。
2012.2.19(日)晴れ エラスの秘密が見えた
今日も暖かくて風もない。ただ、昨日がんばりすぎて太ももにダメージが残っている。LSDだなと50×18Tに固定して80〜90rpmで走ることにした。注意することは3美女のいずれにも力が入らないように。力を入れないというのは使っていることを意識しないようにという意味だ。
この冬は境川で重点的に上げ脚の練習をした。そして、上げ脚がダンシングに関係しているんじゃなかろうかと思いついたのは先週のことだ。ダンシングというのは立ちこぎであるけれど、全然別物だ。エラスのダンシングは異様で空中に透明なサドルがあるかのようだった。姿勢は座っているときと変わらない。上体が前後にも左右にも揺れない。ケイデンスは80rpm以上。
エラスの乗り方の秘密は上げ脚にある。それを今日確信した。予感が確信になった。立ちこぎはふつう体重をペダルに乗せて推進力にする目的で使う。いわゆる守備的な立ちこぎというやつで、ケイデンスは50rpmぐらいに落ちている。そのつもりのままケイデンスを上げるならばギア比を小さくしなければならない。その結果、足がすこすこ落ちる。落ちても下死点で蹴って持ち直せばよい。その動作を続けるには怪物のようなスタミナが必要で、私は20秒ぐらいしか続かない。エラスはそんなぎくしゃくした乗り方はしていなかった。
じつは、同じ蹴るにしても下死点ではなく、上死点手前で蹴り上げる方法がある。それが上げ脚だ。下死点で蹴る場合は、そのまま足が流れる感じで次の動作に移れない。左足が終われば右足が来るまで一時休みだ。しかもペダルを踏みつけると、タイヤをへこましたり自転車をゆがめたりしてロスも大きいと感じていた。ぎゃくに、踏みつける足は無視して、ちょうど反対側にある足を蹴り上げることに集中するとそのへんの不具合が一挙に解消される。足をペダルに乗っける感じが消滅し下死点通過がスムーズになる。理論上は90rpmでも足が回るはずだ。高度なテクで疲れも早いが練習を積めば1分ぐらい行けるかもしれない。これまではダンシングは練習のしようもないと諦めていたのだ。
今日はこころみに、2倍付近の軽いギアを使って平地でその方法をやってみた。足が落ちる感じもなく高速で回せる。そしてそれがエラスの秘密だと確信した。そうすると、座り立ちこぎとよんでいる方法も誤りだったと思えてきた。腕でハンドルを思い切り引いてペダルを足で踏みつけ急傾斜に対処するやりかたなのだが、やり過ぎると腰に来て涙目になる。それをやらない座り立ちこぎもあるかもしれない。ただし、腕の引きと上げ脚を同時にやることは無理だった。
こんな感じで開眼したつもりになって、いざ半原越にいくと完璧な勘違いだったと思い知らされたことが100回ある。犬走り以外の思いつきは全部ダメだったと言って過言ではない。上げ脚ダンシングも100個の汚点にシミを1つ追加するだけかもしれない。それはそれで愛嬌というものだろう。
2012.2.20(月)晴れ 諸法実相
道元さんの正法眼蔵は難しい。とりわけ「諸法実相」というのが難しい。増谷文雄さんの講談社文庫本を中心にいろいろな現代訳を読んでみるのだが、じつによくわからない。訳者によって書いてあることがぜんぜん違う。原書と翻訳書でこれほどずれるのも面白い。そもそも仏教や禅のタームが凡人にわかるわけがないということもある。
ともかく私は自転車乗りとして正法眼蔵は無視できない。道元さんは只管打坐といって座布団に座るが、私はサドルに座る。また虫けらや水草の心を知る上でも正法眼蔵は学ばなければならない。「諸法実相」は難しいけれども、ここを腑に落とさないとさっぱりだから、自分語に訳す必要を感じた。
道元さんという人は宗教者だが、哲学者として科学の素養を持った人だと思う。自然に対しても、自分の無意識に対面しても、ありとあらゆる見方考え方をとって論理を構築できる人だ。多角性と的確な表現は禅者の得意とするところだが、道元さんはそれにとどまらない。無数の視点の一つとして現代でいう科学を持っていて、科学の論理を宗教的に解いて再構築している。
たとえば水については、その三態と循環を理解しており、大気にも地中にも水が行き渡っていることを知っていた。蒸発して雲を作り雨になることは勿論のこと、火の中に水があることを見破っていた。それは実験をすれば明らかになることであるし、知識を持っておれば種々の観察事例で気づけることだ。しかし、それを独力で気づくのは天才である。鎌倉時代に水が火の実体であることを看破するなんて、ありえないと思う。ましてや、道元さんは水と火は独立する元素だと仏典で学んでいたはずだ。
という次第であるから、科学者としてしかもの思うことができない私なりに「諸法実相」を読んでおきたいのだ。
「諸法実相」
仏祖の現成は究尽の実相なり。実相は諸法なり。諸法は如是相なり。如是性なり。如是身なり。如是心なり。如是世界なり。
(訳)「物理の法則について」
仏になることは、有形無形の万物において、それはそもそも何であるか、まずはそのものを極めることだ。そのものを統べる法則に応じて現象がある。現象は法則のままにあり、あるべきようにふるまう。人の体も心もこの宇宙もそのようなものだ。
アニメの下着を描画する方法
釈迦牟尼仏言、「唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相」
唯仏与仏は諸法実相なり。諸法実相は唯仏与仏なり。唯仏は実相なり。与仏は諸法なり。乃能究尽といふは諸法実相なり。諸法実相は如是相なり。
如是相は乃能究尽如是性なり。
如是性は乃能究尽如是体なり。
如是体は乃能究尽如是力なり。
如是力は乃能究尽如是作なり。
如是作は乃能究尽如是因なり。
如是因は乃能究尽如是縁なり。
如是縁は乃能究尽如是果なり。
如是果は乃能究尽如是報なり。
如是報は乃能究尽本末究竟等なり。
(訳)お釈迦様は「唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相」とおっしゃった。
唯仏与仏というのも諸法実相、つまり有象無象のあるようにある存在である。また、諸法実相も唯仏与仏である。あるいは唯仏とはものの本質であり、また、与仏はもろもろの存在であるといえよう。また、極めつくせるといっても明らかになるのは有象無象があるようにあるということほかならない。
有象無象のあるがままというのは、まずはその姿にほかならない。その姿も生物ならばDNAという設計図があるように潜在特性あってのものだねだ。その潜在特性は原子分子配列に代表される内部構造による。その構造が器官を作りエネルギーがはたらく。そのエネルギーは特定の契機から、ある場で決まった対象にはたらく。そして、作用した結果があらわれる。なんでもかんでもこんな感じだ。
2012.2.23(木)雨のちくもり 理解無理?
順調に算数を学んでいた子どもが最初につまずくのは比、すなわち数量の関係の記述、つまり分数である。あれは難しい。理解困難だ。もし分数は関係ということを理解できないうちは進級できないとすれば、小学校を6年で卒業できる者は千人に一人だろう。ただそこはうまくできている。たいていの教師は数学の素質を欠いている。分数のことを割り算のかっこいいやつぐらいにしか思ってないから、子どもが理解できていないことに気づかず進級させてしまうはずだ。橋下案が通っても心配はいらない。
比を乗り越えて中学生になり、算数から数学に移行して最初につまづくのは等式である。すなわち、x=aということの意味がわからない。等号は等しいであるから、左辺右辺は同じもののはずである。あえてそれをx、aと違う表記にする意図がわからないのだ。私はそこで数学がわからなくなった。これは自慢である。その8年後に、かのカールグスタフユングも同じところでつまづいたことを知って、そのつまずきが好ましいものとして記憶に残った。
人間の頭脳はx=aを真理だと判断できる。いうならば、みかん=りんごを納得できる。実はみかんが10個あり、りんごも10個あるのだから、みかん=りんごは等式として成立する。また、みかん5個=りんご3個も真である。つまり、みかん5個が1kgであり、りんご3個も1kgであるというわけだ。ここんとこがせっかくカントが気づいたのにうまく説明できなかった総合判断というやつである。
目に映る実体はみかんやりんごであるとしても、その現象から数量という人間しか理解できないアイデアを見出して等式を立てる。ひとたび扱う数量を決めたならば、その後は演算規則によって計算した結果は正しいことが保証される。みかんにとってはライバルであるりんごといっしょにされて不本意かもしれないが、数学界とはそういう約束の世界である。その勘所をつかまえないと、x=aを習う意味がわからず数学につまずくことになる。立て続けに現れる因数分解とか一次方程式とか、なんでそんなことになるのかさっぱりで迷いは深くなるばかりだ。
正法眼蔵には数学の等式不等式のような表現がやたらと出てくる。しかも、最重要そうな場所で必ずそういう表現にぶつかる。諸法実相の巻でも「諸法実相は唯仏与仏」とある。諸法実相がわからないのにそれを唯仏与仏というもっとわからないものと等しいと説明される。仏様だけが仏様に与えるとか、修行を極めた者から極めた者に伝えられるものだけがというような意味かなあと読み進めると、間髪おかずに「唯仏与仏は諸法実相」と来る。こうなると理解無理?と諦めたくなる。
ただ、形式でいえば、そういう表現方法は道元さんに限ったことではなく、仏教の世界では普通である。日本でもっとも有名なお経には、色即是空 空即是色とある。しかもそこが般若心経の、ひいては仏教の勘所らしいのだ。常識的に考えても、確実な実体とみえる物が本当は空っぽなんだというのは、まあそういうこともありかな、と思うけれど、それを反転させて、空っぽのものはちゃんとした物なんだと言われると、もう理解無理。無念。と思われる。少なくとも、カントが定義した分析判断ふうの理解は無理である。単に修辞的な勢いにかられた同語反転反復の言語遊戯。広辞苑並みの定義の循環。笑止。と思わざるを得ない。
理解は無理のところを無理に理解するならば・・・色即是空は、科学の言葉でいうと、物質は空間ということになる。空間も電磁力や重力などの力を伝えるという点では物質よりも確実な場であるといえるし、見かけ上強固な物体の中も重力なんかは素通しであることを思えばスカスカの空間だ。物質は空間、空間も物質であろう。
無論、お釈迦様のおっしゃる色と空は物理学のタームではないと思う。しかし、常識的見解を超えた時間空間物質エネルギーを扱う物理の世界ではあたりまえに「色=空⇔空=色」である。この宇宙がそのようなものであるのなら、人の心体もそのようなものと理解するのが本当かもしれない。私は自分の心体のことを知っているようで、じつはその実態を知らない。お経が私の手の届いていない心体の秘密に迫っていることだけは確実なのだ。
数学の世界ではx=a、a=xとふつうに言ってよいこととされる。道元さんとその仲間たちは「諸法実相は唯仏与仏、唯仏与仏は諸法実相」とふつうに言って、みなでうんうんとうなずいているふしがある。その寄り合いは2500年続き、無数の賢人がそこに在籍しているのだ。彼らの間には、空気を読んで話を合わせること(いわゆる以心伝心)を超える人間関係があることが想像される。数学でいう数量や演算規則に匹敵する確かな技法が共有されているようなのだ。
2012.2.24(金)晴れ 堂々めぐり
矛盾満歳で常識が通用しない理屈がどうして生きているのだろう。お釈迦様や道元さんやその仲間たちの世界では、定義も論理も循環している。形式論理的な破綻は明らかである。宗教界でも、単なるバカ者とか富に目がくらんでいる者とか、偉人として奉られたいと願う者とか、困っている人を助けたいとむやみにあがく困った人とか、そういう者共が言うわけのわからんことの、その意図はありありとわかる。上記のいずれにも当てはまらない、世捨て人のようにただ上手に座る道元さんたちが珍妙なことを言う。
お釈迦様が何を思って修行されたかというと、どうして人は苦しいのだろう? 苦しみから抜け出すにはどうしたらいいのだろう? というじつにシンプルなことだった。私だったら一切皆苦の原因を人がたどってきた生命進化の必然とみなして放置するところだが、お釈迦様はそんなことはなさらない。いろいろな局面での喜怒哀楽を分析してその原因をたどられたに違いない。そして死にものぐるいの苦行をされ、ひたすら瞑想して座って、金星の下で悟られた。
どんなことでも、どうして、どうして、どうして、と問い続けると3回ぐらいで行き詰まる。だれもが簡単に追試できることだ。10回ぐらいそれをやろうとすると堂々めぐりをせざるをえない。お釈迦様だって人間だ。そうとう堂々めぐりされたろう。
いっぱんには堂々めぐりから得るものはないとされる。孫悟空でなくても、循環すれば一周ごとに出発点なのだ。馬鹿の考え休みに似たりとも言われる。じゃあ、そもそも堂々めぐりってなんだろう、とそのことも考える。
宇宙を見れば、太陽は昇り沈み月も昇りまた太陽が昇って月が沈む。夜が来て朝が来て花は咲き散って雨が降り葉は開き紅葉して散って雪が降りつもり溶けて花が咲く。川は流れ水は海に行き海の水は山に降って川を流れ海に至る。人も含めて生きとし生けるものは輪廻している。前世があり今生があり来世がある。時間にも過去があり今があり未来がある。未来の今にも過去があり未来がある。現象には原因があり結果を生む。結果となった現象もまた原因となる。
思考論理でなくても、万物すべてが堂々めぐりしてるんじゃないかとふと気づく。森羅万象と人間のことを極めようとすればそこらじゅうめぐる輪だらけだ。どうやら自分のしっぽを飲み込もうとして輪になっているウロボロスの蛇みたいなものが諸法実相らしい。お経はやたら繰り返しが多い。その冗長感も論理がめぐるのもまさに諸法実相を記述しているからではないのか。定義の循環なんて恐れるに足りない。いや一歩進んで、矛盾で森羅万象を言い切ってやろう。というようにお釈迦様や道元さんたちが考えている、かどうかはわからないけれど、私は諸法実相の巻をそう感じる。
それでは、因縁でがんじがらめの前世現世来世の輪廻から抜ける方法はあるんだろうか。苦の循環を断ち切る方法はあるのか。
何千年前かに、前百丈山のお坊さんが「悟ったら因果の連鎖に陥らない」と不適切発言をして500回ぐらい野ぎつねをやったという。当時の常識では人間に生まれて坊主になれば解脱寸前である。あと一歩というところでしくじってきつねになっては残念なことだろう。私は不適切発言も恐れない。前世では魚や山椒魚をやったはずだ。その頃の記憶はちょっとある。といっても、それは単なる科学的事実にすぎなくて生まれ変わりには若干疑問を感じている。けれど、まだやっていないハエやイヌタデにもなれるなら、ちょっとやってみたい。
心体が巨大な輪をなしているならば、その輪が苦の原因なのだ。ウロボロスの頭に噛まれている尻尾は痛いが、噛んでいるせいで尻尾が痛いと感じる頭が痛い。苦しいのはきっと無限の過去と無限の未来のどこかで痛い目にあってるからだろう。しかも自分のせいで。それを発見して除けば楽になるかもしれない。と言っても未来と過去は手に負えない。ただ、現在のこの心体が無限連鎖の過去や未来の苦しみを生んでいるなら、それは何とかなるかもしれない。いまこの局面でビシッとすることだ。ひとまず、心が時系列のどこに居るのか、体が因縁のどこにあるのか、ウロボロスの頭にいるのか胸にいるのか腹にいるのか背にいるのか尻尾にいるのか、そこで何をしているのか、しっかとつかむことからはじめよう。
というように正法眼蔵を読んでいるのだが、そうとうずれているだろう。禅の仲間内では、ひとまず30年も座れば悟るよ、などと言うみたいだ。私も30年座っているのだが、そこはサドルだ。サドルと悟るは文字面だけにている非なるものだ。スタートから間違ったものに座って、ひたすら女の子の太ももを考えている。
2012.2.26(日)くもり 雨のあと
今日の境川は風がなかった。ステムをチネリの80mmに換えたナカガワでひとっ走り。風がないから上りも下りも50×16Tにいれて巡航練習。心拍数は160bpm、速度は30km/hぐらいでちょうどいい感じ。ペダリングに引っかかりがないように、力を抜かないように気をつけた。
写真はシジミの水路。昨日は雨が降っていてこの水路に水が流れていた。今日は水がたまっているだけだ。水が流れ水底の泥が撹拌されると比重の小さいシジミの殻が泥から浮いて出てくるのだろう。黄色くなった殻がずいぶん目立っている。
この季節に雨が降ると山のカエルが産卵しているだろうなと思う。思うだけで何もしないのは例年のことだ。今年は新刊のカエル図鑑を買った。農山漁村文化協会の「カエル(田んぼのいきものたち)」は一般的なカエルの生活史が網羅されているお値打ち品だ。鳴くのはオスだけだと明記してあった。たぶんそういうことだろうとぼんやり考えていたことがはっきりした。庭にひしめく冬枯れの雑草を半分ぐらい片付けた。
2012.2.27(月)くもり 雲の衛星画像
晴れた日の積雲が空を流れて行くわけがよくわかっていない。それを考えるのに気象庁が出している雲の衛星画像はぜんぜん役に立たないと思ってきた。役立たずどころか有害だとみなしていたのだ。その理由はいくつかある。
1)積雲は小さすぎて衛星画像に写っていない。
画像に写っている白い雲は地上では単にくもり空のはずである。
2)衛星画像は広大すぎる。地上から見渡せる範囲は
せいぜい100kmしかない。
3)雲画像は早回ししているので、天気ではなく
雲が動いてると錯覚する。
以上のようなことだが、それが全く誤解で衛星画像が立派な資料になることに気づいた。今朝まではテレビの衛星画像を見て雲の動き、とりわけ低気圧付近の渦とか雲のかたまりの東進速度、にばかり目を奪われていた。言わば木を見て森を見ずの状態だった。雲がないところも同じように風は吹いているのだ。
積雲が流れるのは上空の風の影響である。これは間違いない。そして上空の雲の衛星画像をみていると大気の流れを反映していることがわかる。低気圧では反時計回りに渦を巻きながら上昇するのが大気の流れだ。また、日本付近では、たぶん偏西風のせいで、低気圧も高気圧も1日で500〜1000kmも移動してくる。つまり地上に対して上空大気は時速20〜40kmほどで東進していることになる。雲がないところも速度と方向が見えないだけで同じような大気の流れがあるだろう。
その流れは積雲の動きに密接に関係しているはずだ。衛星画像で雲がない高気圧下では時計回りに風が吹き出しながら下降してくる。そのベクトルと大循環のベクトルの合力が積雲にかかるのではないだろうか。
地上付近を速めに飛ぶ片積雲は概算で40km/hだった。2kmほど離れた所にあって、見かけ上天に突き上げた握り拳大(視角10°)の積雲が1分でその雲の幅だけ動いたならば20km/hで流れていることになる。しかも上空1000mぐらいで雲を運ぶその風は地上の風とは趣がちがうもののような気がする。雲を吹き飛ばすのではなくごっそり運ぶような。
2012.2.29(水)雪 ツバメが実相を語るとき
道元さんの諸法実相の巻は、玄沙院宗一大師のエピソードを解説して終わる。そのエピソードはおそらく公案にもなっている超有名なものである。
玄沙院宗一大師、参次に燕子の声を聞くに云く、
「深談実相、善説法要。」下座。
(訳)玄沙院の宗一大師は説法のときにツバメが鳴いているのを聞いていった。
「ツバメがうまいこと実相をかたっているぞ。」それだけで玄沙さんの説法が終わった。
井戸水であり有害な化学物質である
ということなのだが、そのエピソードを道元さんが以下のように解説する。
いはゆる深談実相といふは、燕子ひとり実相を深談すると、玄沙の道ききぬべし。しかあれども、しかにはあらざるなり。参次に聞燕子声あり、燕子の実相を深談するにあらず、玄沙の実相を深談するにあらず、両頭にわたらされども、正当恁麼、すなはち深談実相なり。
(訳)ツバメがうまく実相を語っていると玄沙さんは言った。でも、そうではない。説法しようとしていたときにツバメの声があった。ツバメが実相をうまく語ったわけではなく、玄沙さんが実相を語ったわけでもなく、そのいずれでもないけれど、まさにそのときその場所でちゃんと実相が語られている。
状況はありあり分かるけれども、そのエピソードに常識的な意味は見いだし難い。ただ、私には道元さんの言いたいことがなんとなくわかるような気がする。ヒントになるのは以下の一節だと思う。
実相の諸法に相見すといふは、春は華にいり、人ははるにあふ、月はつきを照らし。人はおのれにあふ。あるいは人の水をみる。おなじくこれ相見底の道理なり。
(訳)ものの見た目の中にその本来の姿があるとか、森羅万象には本質があってそれが現象しているとか、物理には法則があるなどというけれど、それの意味は、花は春をはらんでいて、人間は花を見て春を感じるとか、お月様は月が照らしているとか、人がたまさか本来の自分ってもんを意識するとか、人が水を見るときは水も人を見る、というような理屈なのだ。
春とはる、月とつき、人とおのれというように漢字とひらがなで書き分けているところに表現の工夫がある。諸法と実相とにちがったニュアンスを含めているにちがいない。この一節のなかで、相見底の道理ということが私なりにわかるし、玄沙さんのツバメのエピソードはそこにかかると考えている。
2012.3.1(木)晴れ 人車一体の境地
「春は華にいり、人ははるにあふ」というところで言っていることは、現象面では単に人間と桜が対峙している、花見をしている人がそこにいるということに過ぎない。「参次に燕子の声を聞く」というのは現象面では、単に玄沙さんがお寺の廊下を歩いているときにそばの枝でツバメが鳴いているに過ぎない。だが、そのときに桜を見る人は春だなあと思っている。そのときに、玄沙さんは初夏の実相を感じている。
「月はつきを照らし」というのは、現象面では単に夜空にお月様がかかって人間がそれを見ているということだ。人はそのときまでに様々に月を見聞きしたろう。望月の欠けたる云々というような歌を知っているかもしれない。月の姿にもいろいろあって、かれの心体には月のイメージがある。それゆえに、人はイメージに彩られた月を見ることになる。その月を見たことで、また後日一味ちがう月を見ることになる。
「人が水を見るとき水も人を見る」というようなことは道元さんと仲間たちが盛んに言うことだ。彼らは"人|水"というように2者に線引きすることを毛嫌いしているみたいだ。そのままの意味で水が人を見るかどうかはわからないけれども、水泳の達人なら道元さんたちの真意がわかるのではないだろうか。
私は自転車に乗っているとき、自転車が消え失せて道路の上を飛行している気分になることがある。手垢のついた表現を使えば、つかのま半原1号と一体化しているのだ。人車一体とか人馬一体とかクラブは腕の延長とか、それぞれの競技で普通に使われることでもあり、達人にならなくても体験できることだ。
もし、心とか神経とかいわれるもののサイズを身体と同じと考えているなら、それは考えたらずである。心を身体の隅々まで行き渡らせるには鍛練を要する。逆に、使い慣れた道具には文字通り神経が通う。使われず眠っている筋肉よりは30年使い続けたスパナのほうが思い通りに動いてくれる。
また、気が入るとか気持ちが乗るというようなこともいわれる。野球のピッチャーはボールに気持ちが入っている。離れていてもボールと投手は一体。一発打たれたとたんにボロボロに崩れてしまうことはよくある。あれは、ノーヒットノーランがだめになって気落ちしたためではない。体の一部であるボールを打たれて、腕が切り落とされたのだ。打たれ強いといわれるのは、腕が切られてもピッコロ大魔王のようにすぐに再生できる投手だ。
半原1号とはごくたまに一体化することがあって、そのとき私は半原1号を意識していない。自転車乗りという実相と自転車という実相が融け合っているのだろう。半原1号のほうは、「こいつはなかなかうまいことやってるな」と感じているかもしれない。「私が半原1号に乗ると自転車もひとに乗る」という状態だ。
ただし、人車一体程度ではまだまだ途半なのだ。自転車の達人がベダリングとは何かと問われ「ペダルを踏むのは初心者。クランクを回すのは中級者。地球を回すようになればOK」といってた。半原越TTスペシャリストである私は、あそこの道路の中に神経を張り巡らせて、道路の皮膚から半原1号のタイヤを感じ、半原越に「こいつはなかなかうまいこと乗ってるな」と言ってもらって一人前といえよう。
2012.3.2(金)雨 イヌタデひとを見るとき
「人が水を見るとき水が人を見る」という、そのような呼吸がわからないかぎり、水中イヌタデの気持ちはわからない。空中にも水中にも生きることができるイヌタデの、その水中にいる気分は測りがたいものがある。空中イヌタデであれば、同じく空中で息をしている者として、その気分もわかるのだが、水中となるとやはり水の目でイヌタデを見なくてはならないだろう。つづいて、水中イヌタデの目で私を見てはじめて、水中イヌタデとはなにかをつかむことができる。
私は鎌倉時代の仏教者ではなく現代に生きる科学者であるから、植物の理解も必然科学的なものになる。研究のアプローチは科学の手法を使う。科学の方法は無際限にイヌタデに迫ることができるのだけれど、おのずと限界がある。限界を超えた勘所をおさえることが視点を広げ、研究意欲を持続させることになり、アプローチの幅を大きくすることになる。そのことを思い知っているから諸法実相を読む。
科学の限界を超える理解っていうのは説明が難しい。いわば、「それはそもそも何なんだ?」っていう問いへの回答のようなものだ。小学校に上がると勉強を習う。私は学校の勉強のなかに「あれは何?」の回答を期待していた。しかし、国語、算数、理科の中にその回答は一切なかった。そのかわり、万人に受け入れられる解答を可能にする巧妙な方法があることを学んだ。そのテクニックを習得することは退屈であるし欺瞞でもあるけれど役にはたつ。役というのは、難関大学に入って鼻高々になれるとか、お金持ちになるとか、偉くなるとか、人助けができたり他人を感動させたりできるということである。
なんだくだらないと軽く見てはいけない。そのテクニックは、地球上で命をつながんとして人類が鍛え続けた能力のたまものなのだ。文明のドライブフォースでもある。
「あれは何?」のあれに名前をつけ分類上の位置を示すのは解答の一つである。あれに含まれている原因理由動因動機をあげるのも解答の一つである。あれがどういう結果をもたらすのか、またはあれの目的はなにかを示すのも解答の一つである。あれに似ているものを指し示してもよい。あれは良いもの好きなもの悪いもの嫌なものと感情的レッテル貼りをするのも解答の一つであるし、無視する気にしないというように、あれに対する無関心を決めることすら解答の一つである。
解答はいくらでも創造できるけれども、そのときすでにあれは死んでしまっている。「あれは何?」とひっかかったまさにそのときには、そのての解答方法ではとどかないなにかが起きている。去年はひっかからなかったイヌタデに今年はひっかかった。イヌタデが変わったからひっかかったわけでなく私が変わったからひっかかったのだ。私がイヌタデを見てイヌタデが私を見る。イヌタデから見える私が変化しているからこそひっかかりが生じた。私とイヌタデの互いの実相がぶつかったんじゃなかろうか。
私もイヌタデも無常の諸行のひとつでふらふらしている。「あれは何?」と追いかけていっても、イヌタデの実相がつかめるとは限らない。イヌタデはイヌタデであっても、私にとってのイヌタデは変わる。どれがイヌタデの実相なのかはわからないかもしれない。
仏ならばイヌタデの実相はつかめる。イヌタデばかりか仏は諸法実相をつかみとれるという。だからといって私がイヌタデの実相を仏様に尋ねても無駄らしい。本当にその仏が正鵠を射ているのか、その判定が可能なのはかの仏だけだというのだ。唯仏与仏乃能究尽というからには、仏と仏がであえばぴたり一致する実相があるのだろう。しかもそのときの実相とは、360°回って諸法そのままらしい。「どうにもわからないんですが・・・」と質問しても、あまりにあっけらかんとそのまま見えているものだから、仏からは「そんなこと言っても誰も信用しないよ」と返されるぐらいなのだ。お釈迦様の悟りを追認するのが仏教修行である。そして修業して仏となる。悟りは仏から仏に伝わっていく。諸法実相もそうやって共有されている� �のらしい。
2012.3.4(日)くもり ダンシングの実相
写真は境川のわきに咲いていた雑草である。一見してアブラナ科は明白だが、とにかく巨大だ。草体はひと抱えほどもある。黄色い花はそれほど大きくなくて菜の花ていどのものだ。こいつの正体が分からない。境川でもときどき新参の植物をみかける。
今日も寒くて半原越に行く気になれずナカガワで境川。相変わらず低ケイデンスでの仮想半原越練習だ。50×18Tにかけて70rpmぐらいを維持する。そろそろブラケットも使った方がいいだろうと、向かい風はブラケットで犬走り。下半身は太ももをつかう。きっと効果的な練習なのだが筋肉へのダメージが大きい。昨日の疲れが全然とれてない。自転車の走り方がわかったのは偉いと自分をほめてやりたい。ただ、もう老人に手が届く年齢になっている。やりかたがわかっても長時間の練習はできず、回復にも時間がかかり、回数もこなせない。
やりかたといればプロのダンシングの秘密が分かったような気がする。ツールドフランスでランスが初優勝した年のセストリエールでのアタックのビデオを見ていると、ランスの体のどこにどう力が入っているのかが実感できる。自転車では選手の動きは丸見えだ。その点では技を真似するのは簡単なように思えるけれども、力の入れ方抜き方を見破るのは簡単ではない。
もう何年も、ランスやエラスが登りで見せる高速ダンシングのコツが分からなかった。たかが自転車の技術なのに真似しようとしてもできなかったのだ。何十何百時間もプロの走りを見ていたのに、その実相は見ていなかった。この冬、境川で上げ脚に気づいてダンシングにも使えることがわかった。課題は体力にある。30秒もやるとオールアウト。反動で動けなくなる。ダンシングの練習は非常にきつい。反復練習しないと身につかないハイテクなのだが。
2012.3.7(水)くもり ペダリングの物理
人体は歩くことや走ることについて最高のシステムではないはずだ。ヒトの心がそうであるように、歩くこと走ることについても、当座なんとかなる程度に動き、なんとかなる程度に意識できるに過ぎない。ましてや人類は自転車に乗って誕生したのではない。人間の妙味は頭を使ってヒトと物理の溝を埋めるところにある。
自転車に乗っているときに、人は自分がしていることを正しく意識できない。たいていは、無駄足に気づいていない。または、ペダリングをかんちがいして難しいことをやろうとしている。悩んだときは、物理の基本にたちかえるといい。
図はライディングを模式化したものだ。ライダーは画面左に向かって進んでいる。扇形の中心はサドルに座った腰である。膝の軌跡は、A→P→B→P→Aと往復運動する。円はペダルの軌跡である。膝の動きとは(A、a)→(P、p)→(B、b)→(P、p)と対応する。
膝の上下運動は最大の推進力である。他の力はおそらく付け足し程度でとるに足らない。膝の動く範囲は角度π/4で、ひざ上が40cmとすれば、30cmほどを往復運動することになる。その運動から生まれペダルに加わる力は、赤と青の矢印で示したベクトルで示される。方向は円の接線であり刻々変化するけれども、概ね下げるときは赤の矢印、上げるときは青の矢印で示される。結局、この赤青のベクトルが推進力である。
膝を下げて踏み込むときの力のかかり方を図で見てみる。踏み込むとき、ペダルはaからbまで動く。前半の第1区では赤い矢印とペダルの軌跡が直角になり、クランクにかかる合力をみれば、力が推進力にならないことがわかる。ベクトルが一致するのは、第2区であり、図に描いたところの1点でのみ膝とペダルの方向が一致する。次に引き脚を見てみる。ペダルはbからaまで動く。踏み込みと同様に、第3区では力が推進力にならず、第4区で方向が一致する1点がある。先日は、この2区と4区の力の応用が攻撃的ダンシングだと理解したのだった。
膝の上下運動は色づけした部分だけで有効である。踏むとき有効なのはP→Bの後半部分ということになる。ここが自転車がもっともつよく推進力を得るところだ。次に有効なのは第4区のP→Aである。この冬はこの力をつけるべくやっきになって境川でペダルを蹴っ飛ばしている。以上が物理的に決まっている自転車推進の規則だ。何をどう工夫しようとここから逃れることはできない。
ただ、乗っている実感とはずれているだろう。たいていのライダーが有効な部分を第1区だと感じているはずだ。けっこう乗れるライダーなら、第2区で力を抜くことに腐心しているだろう。第1区では膝の上下運動以外に、膝を伸ばす力をペダルにかけている。その動きは物を踏む動作でもあり、力を出していることを意識できる運動である。第3、4区では休んでいることもあって、第1区でさあとばかりに動き出すということもあろう。脚の重さも加えてはりきって踏みつけるのだ。
ペダルを円運動させることは可能である。しかし、1区と3区では膝を伸縮する筋肉を使わなければならない。膝を伸縮する筋肉は出力が小さく疲れやすい。高速回転で軽く走っているときには円運動もOKだが、半原越ではそんなやりかたは通用しない。赤青のベクトルをしっかり意識することが第一だ。ただし、下げた膝を反転して上げるには筋肉に弛緩と準備も必要だ。最適ポイントで最高に出力できるとは限らない。
2012.3.8(木)くもり 春臭い
昨日の図で、2区では膝とペダルのベクトルの向きが一致する1点があるといったが、それは自明ではなかった。そのことを感覚的に把握できるように今日の図を用意した。
左図は2区におけるベクトルの向き、つまり接線の傾きを時間を追って表したものである。赤いのはペダルの軌跡が描く円周に接するの接線の傾き。原点の0秒時にはpにペダルがある。0.2秒後ぐらいにペダルは下死点のbに達する。pでは接線の傾きはマイナス無限大で、時間がたつにつれて単調増加しつつ、bでは傾き0になる。
青線は膝の軌跡の接線の傾き。0秒のときPに膝がある。そのときの傾きは−1ぐらい。そこから単調増加して、0.2秒後にBに達したときは傾きは−0.5ぐらいである。
ベクトルの方向が一致するかどうかは、赤線青線が交差するかどうかをみればよい。いいかげんに引いた線ではあるけれど、交点が一つできることは明白だ。
雨があがって気温も上がり、朝の庭は春の匂いがぷんぷんである。しばらくふさがっていた巣口をあけてクロナガアリが姿を現していた。
2012.3.13(火)晴れのち雨 ウィギンス
最近、自転車にのるとへろへろである。境川で毎回ぐったりしている。先の日曜なんかは左の膝まで痛くなった。それは上げ脚の練習をしているからだ。無理にペダルを引き上げると筋肉にも関節にも負担がかかる。日常では使わない動きなのでダメージが残っても差し支えない。逆にいえば、普通じゃない動きだからこそ自転車でしか鍛えられない。ただのオヤジとしてはどれほど進歩できるか楽しみなところである。
今年のパリツール最終日は山岳タイムトライアルであった。コースの距離は9.6km、平均斜度は4.5%である。優勝したのはウィギンスだ。彼は変形ギアを使うことで知られている。私の図でいえば2区と4区の、太ももの押し引きがストレートに出力になるところで、ギア比が大きくなっている。合理的といえば合理的だが、そういう変形ギアを使う選手は決して多くない。ウィギンスはもとはトップクラスのピストの選手で、タイムトライアルのスペシャリストとしてロードに転向した。今では山岳も走れるようになり、グランツールの優勝に手が届くところに来ているという。
山岳TTであったけれど、ウィギンスは平地のTTと同じスタイルで走っていた。自転車は普通のものにTTバーを装着している。TTバーを握って前乗りで頭を下げ、90rpmぐらいのハイケイデンスで走っていく。ダンシングはほとんど使わない。
タイムは19分12秒であった。ためしに、ヒルクライム計算というサイトで平均出力を出してみると425Wになった。怪物である。私はその半分の200Wを同じ時間出すのに四苦八苦している。ちなみに、半原越で425W出すと11分30秒でフィニッシュできることになる。改めて世界のトップは雲の上にいるんだと感動する。
半原越で遊んでいる素人連中のトップクラスは15分で登る。たまにそういうライダーに会うが、彼らだってバケモノのように速い。なにしろ私が一瞬たりとも出せないスピードで走る強者だ。ウィギンスはそういうバケモノですら一瞬で置き去りにしてしまう。30秒で50mも差がついては勝負する気も失せるだろう。
2012.3.18(日)くもりのち雨 田代さやかに対する誤解
昨日も今日も上げ脚練習。絶対半原越の出力があがると信じて上げ脚練習。軽い向かい風の中を50×17Tを使って28km/hで走っているとき、上げ脚はともかく下げる方もいるよな、とふと思いついた。第2区での太ももを下げる方はずっとやってるから意識して練習することもないだろうと思っていた。それでも、「ところで、ペダルが2区にあるときどこの筋肉が使われるのか、確認する必要はあるよな」と思いついて、あえて力を入れてみた。
じつはかなり驚いたのだが、そのときの筋肉は田代さやかだった。今日の朝までは田代さやかは下死点通過後の筋肉だと思っていた。第3区で無理やり力を入れるときに発動するとっときだと思い込んでいたのだ。
自分の体の動きを認識する難しさは知っていた。それは科学者として理論で知っているだけだった。何百万回となくやってきたペダリングでこれほど大きなずれが起きているとは思わなかった。
私の脚には心的重心とでもよぶべき場所がある。それはおおむね膝のあたりだ。そこを自分の膝だと認知して運動している。自転車に乗るときではペダルの動きから心的重心は円を描くことになり、直線的に往復運動している膝も円を描いて動くと勘違いしている。その勘違いは放置して問題ないのだけれど、区と筋肉にずれがあると練習にならない。
今の練習は、第1区と第3区で力を抜くものだ。だから、田代さやかを3区の筋肉だと誤解していると、あえてさやかを封印してしまう。とにかく、田代さやかに力がはいってふとうつむいて、下死点のはるか手前にあるペダルを見たとき顔色を失ってしまった。本当は2区で最も重要な筋肉らしいぞ。
2012.3.20(火)晴れ 半原越はしんどい
春分は年の初めのめでたい日だから何をおいても半原越だ。2か月ぶりでちょっと張り切りすぎたかなと区間1で反省している。半原1号は決戦仕様、靴もクリートも新調しペダリングにガタがない。この冬、ずっと練習してきた上げ脚を試してみる。1kmのケヤキ坂では、上げ脚ダンシングを試してみる。パワーはでるけど一気にエネルギーを失う。上げ脚は諸刃の剣だ。塩梅良く使わないといけない。区間4で泣きそうになった。やっぱり半原越はしんどい。
ラップ | タイム | 目標 | km/h | bpm | rpm | W | |
区間1 | 4'05" | 4'05" | -15 | 17.2 | 172 | 73 | 223 |
区間2 | 9'11" | 5'06" | +16 | 13.8 | 182 | 73 | 207 |
区間3 | 14'17" | 5'06" | +16 | 13.9 | 184 | 64 | 194 |
区間4 | 20'44" | 6'27" | +27 | 11.1 | 183 | 66 | 203 |
全 体 | +44 | 13.6 | 181 | 69 | 205 |
半原越を降りてピストン式に帰宅。途中に見つけているミズタガラシ?を見に行った。恐るべきことに根こそぎなくなっていた。リシアもかなり刈られている。マニアが持って行ったとも考えにくい。たんに雑草だから駆除されたのだろう。花の季節にしっかり探せば1つぐらいは見つかるだろう。
昼飯食ってから半原2号に乗り換えて境川。こっちは遊水地のコケが気になっている。もう一つ、湧水のオオカワヂシャ?は健在だった。雑草だけど。
2012.3.21(水)晴れ 遊水地のツチノウエノコゴケ
写真はツチノウエノコゴケだと思う。3月11日のたまたま見聞録に出したものと同じだ。ただ、11日のものは長く伸びたサクしか写っていない。こちらは葉のほうだ。採取して来て自慢のスーパーマクロで接写した。
このコケのサクはよく目立つ。遠目から薄い芝生のようだ。春の斜光のもとであわい黄緑がなんとも美しい。私は数年前からそのコケ群落が気になっていた。生えている場所がまず尋常ではない。境川遊水地の建設に伴って造成された法面である。どこからか土を運んできて新しく盛っている。カンカン日の照る道路脇だ。北向きに落ちる傾斜はつけられており、日中でも日差しはいくぶんか斜光になる。吹きさらしで乾燥は避けられない。一見してコケの生育に適するとは思えず、当初はすぐに普通の雑草に負けるだろうと思っていたが数年を経ても雑草は少なくコケが群生している。
せめてその名ぐらいは確かめてみようと、昨日一欠片を採取してきた。地面はどういう工法をとったものか妙に固かった。まるで表面を人工的に固めたかのようだ。草よりもコケが優占するのはそのへんに原因があるのかなと思った。
サクは長いが、葉は短い。せいぜい2ミリといったところ。とがって巻き込む特徴や生育場所からみてツチノウエノコゴケだろう。ギンゴケらしいものと混生している。肉眼ではそっちのほうしか見えないものだから、ギンゴケのサクかと思い違いしたこともあった。
2012.3.22(木)くもり 陸橋のコケ
「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」ってのはよく聞くことだが、桜切る馬鹿が本当にいるらしい。全国の桜の枝を切り集め、その切り花を有楽町で展示しているとテレビが言ってた。その馬鹿な行為の意図は不明。
写真は小田急線の陸橋にたくさん生えているコケだ。陸橋の南側は日陰になって湿っぽくこのコケによい環境になっているようだ。まるで緑の餅のように道路の隅っこにぽこぽこ生えている。今はサクの盛りらしく遠目からも赤く萌えて美しい。いっちょ名を特定しようと、ひとかけら採取してきた。
ずっとホソウリゴケ、あるいはハリガネゴケだろうと思い込んでいた。道ばたに餅のように貼りついている深緑のコケなんてそのどちらかだ。ところが、いざ採取してしっかり葉をみると、中肋が先端から針のようにとび出している感じがない。どうやら、ホソウリゴケ、ハリガネゴケではないみたいで困ってしまった。いったいなんだろう。ありふれたやつなのに。コケは深い。
2012.3.24(土)くもりのち雨のち晴れ 走法が板についてきた
いつもの草むらに座ってコーラを飲みながら蕭々と降る雨を眺めている。いつもの年ならいまごろの清川村は桃源郷のようになっているはずだ。ロウバイ、梅、アカヤシオ、様々な庭木が競うように花をつける。今年はずいぶん遅いと思う。山の芽吹きもちょっとだけだ。
雨の支度はまったくしていない。雨雲が近くにあったのに、降るまいと予想したのだった。幸い気温は高い。座架依橋の温度計は9℃だった。濡れても問題ない。
半原越えは前回とおなじく決戦仕様の半原1号。張り切りすぎたきらいがあったからアベレージで登ってみようと思っている。練習を積んだ上げ脚を使うことを優先して回してみるつもりでやってきた。半原越にかかると雨はいよいよ強く、路面を水が流れるようになった。
ハンドルバーの中央を持って上ハン犬走り。上げ脚が使えていることを自覚できる。数字に表れるほどではないけどうまくいっている。心なしかきつい区間が楽だ。この走法が板についてきたと思う。境川での練習が半原越で生きた。
ラップ | タイム | 目標 | km/h | bpm | rpm | W | |
区間1 | 4'32" | 4'32" | +12 | 15.6 | 170 | 69 | 197 |
区間2 | 9'46" | 5'14" | +24 | 13.6 | 181 | 75 | 196 |
区間3 | 14'58" | 5'12" | +22 | 13.6 | 181 | 74 | 190 |
区間4 | 21'25" | 6'27" | +27 | 11.2 | 186 | 65 | 197 |
全 体 | +85 | 13.3 | 180 | 70 | 194 |
降りる頃にはずぶ濡れだ。下りのことは全く考えてなかった。20℃下回ると合羽なしではしんどい。おもいっきり冷えてしまった。荻野川まで来て橋を渡り、やれやれ下りもここまでとほっとしてハンドルを切ると前輪に違和感。空気が抜けはじめている。あと15km。このまま行くか・・・とも考えたけど修理キットも持っているからと、雨を避けガード下でチューブの交換を試みる。
さて、ここで問題発生。イタリア製の超小型安物空気入れからぜんぜん空気が入っていかない。バルブの所がヤワなのは前から気になっていた。パンクはしかたない。雨の半原越を決戦仕様のタイヤで走ったのだから。にしても空気入れが使えないのには弱った。自転車屋なんていう気の利いたものは近所にない。しかたなしに前輪をガコガコいわせて走って帰ることにする。これまでの経験から、クリンチャーとはいえパンクしたまま走ってもホイールが壊れることはないことが分かっている。20km程度ならチューブもタイヤも致命的なダメージは受けない。落ち着いて走っていけばいいのだ。
寒さに震えながら帰宅して空気入れをチェックした。バルビエリのナノというタイプだが、交換可能なバルブのねじがゆるんでいたのが原因だとわかった。携帯型の空気入れはいくつも試しているけど決定版といえるものはまだない。あまりパンクしないというチューブレスタイヤを試してみようか。
写真は荻野川。ちょっとだけ好きな川だ。オオカナダモと思われる水草もある。可動式の堰堤には謎の草もある。写真では川岸の草が沈んでフェイク水草状態になっている。ギシギシも花をつけているタネツケバナも沈んで、ちょっとだけいい感じになっている。インチキだけど。どうやら可動堰がつかのま上げられているらしい。
さあ今日も半原越だ。風は冷たいけど天気はばっちり。青空に積雲が浮いている。春らしくなく空気が澄んで視界がきく。芽吹きはじめた林の前をトンビをカラスが絡んで飛んでいる。木々の間になにかけものがいるような気がして目をこらした。
日の下を自転車で走るのも久しぶりだ。半原越に入ると道ばたを蝶が飛んでいた。ヒオドシチョウだ。この辺の3月に普通の蝶だ。1分ほどしてまたヒオドシチョウ。また1分して今度はぼろぼろになったヒオドシチョウ。越冬の苦労がしのばれるなあ、と目で追うと・・テングチョウ?いまいち特徴的な頭の形を認められなかった。
今日はチョウが気になるぐらいの力で走っている。境川を向かい風でがんばっているぐらいでやっている。それぞれ目標値よりも30秒ほどオーバーすることになる。なるほど、この冬は半原越を22〜23分で登る練習を積んだようなものだ、と思った。
ラップ | タイム | 目標 | km/h | bpm | rpm | W | |
区間1 | 4'50" | 4'50" | +30 | 14.6 | 160 | 66 | 185 |
区間2 | 10'15" | 5'25" | +35 | 13.1 | 170 | 68 | 192 |
区間3 | 15'37" | 5'22" | +32 | 13.3 | 170 | 69 | 180 |
区間4 | 22'12" | 6'35" | +35 | 10.9 | 180 | 63 | 189 |
全 体 | +132 | 12.8 | 171 | 66 | 186 |
半原越を降りて久しぶりに271側道と134号線を回ってきた。たまには力いっぱいすっ飛ばすしてもいいよなと40km/h。境川に入って終盤あたりで今日は後輪がパンク。雨でもないし、空気入れはばっちりだしさくさくっとなおして再出発。
パンク修理をして気づいたのだが、リムの中にけっこう水が入っている。雨の中を走ると、リムとシートチューブとダウンチューブにたぷんたぷん水がたまる。水抜きは面倒だがそういう自転車だ。帰宅してたわしで水洗いしてフレームの水抜き。本当は、BBやヘッドも分解掃除しといたほうがいいのだけど。
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